樹と話す、いや話せているつもりになっているだけの頭がおかしい自分がそんなつもりになったのは気功を習ってからで、つい数カ月前からである。
ところでみなさんは、今住んでいる部屋が夢に出てきたことがあるだろうか?自分の場合はよくあり、大抵実際より広くて物が少ない。また、さほど心地はよくない。侵入者がいることが多く、落ち着かない。しかし、いちどだけ心地よい夢を見たことがある。まだ気功なんか嘘だと息巻いていた数年前のことだ。
夢の中で外から家に帰ってきた。部屋のそこここに体育座りして誰かいる。顔も性別も服装もわからないが、人っぽい。しかし怖くはなく、部屋の中央に進むと角っこに大きな樹が生えていた。
樹は天井を突き抜け、天井には樹のために穴があいていた。穴からは霧のようなこまかい雨が落ちてきていて、しかし冷たくはなく霧雨の美しさ、優しさだけがかんじられた。樹は長い枝をしだらせ、自分のすぐ目の前まで届くその枝には、大きな白い花びらを持つ花がいくつもついていた。両手に余るぐらい大きく、花びらは4枚だったように記憶している。
白い花が好きなので、とても美しく優しく好ましい印象の樹だった。樹の根元には土があり、他の床はフローリングだった。樹は西側にあり、南側を向くと座っていたうちのひとりがなにか話しかけてきているようだが声はきこえない。くつろいで、とかまぁすわって、と言っているような気がした。やはり顔も性別も服装もわからない。とても落ち着ける、心地よい、おだやかな雰囲気だ。
南側はほぼ全開になっていて、アジアンテイストな昼下がりだった。夢を見た直後は昼下がりだと解釈していたが、夕暮れのような色だった。天井の穴から見えた空は夜だった。
実際は南側は全開にできない。天井に穴はないし、上には部屋がある。しかし部屋の広さは実物に近く、なにより全般的な心地よさが妙に印象に残る夢だった。
夢判断で調べてみたところ、家に樹が生える夢はよくない夢であるらしい。また、夕暮れや夜の夢もよくない解釈が多い。それからも夢を覚えていたときは夢判断でググって調べ続けたが、大吉夢も悪い夢もひとつも当たらない。シンボルの持つイメージがマジョリティとは合致しないのだろう。それでもトライしつづけたが、ハズレばかりが何年も続くので夢判断は卒業した。
白い花は白木蓮ではないかと見に行ったが、はなびらの形が違うし、てのひらふたつぶんよりはちいさい。また、枝はしだれていない。しかし花の香りは魅力的で、花を見に普段行かない場所に行けたことはインドアな自分にはメリットだった。
夢の中で西側に生えていた大きな樹を、「樹の神様」と呼ぶことにした。この夢の中では自分はとても受け入れられていたのだ。
そして、「樹の神様」のために場所を空けることにした。夢の中で樹が生えていた場所には、衣装ケースを積んでいた。それまで引っ越しを繰り返しながら住んでいた部屋はずっと和室サイズのクローゼットだった。和室サイズの衣装ケースに衣服を入れ、引っ越しのたびに衣装ケースを入れ替えるだけにしていたのだ。しかし洋室のクローゼットに初めて出くわし、奥行きが足りなかったため床に置いていた。
当時まだ断捨離を敢行していなかったので量は多く、またジャケット等衣装ケースに入れられない服を含めてクローゼットに入りきらい服がたくさんあった。
まずは衣装ケースを数十センチずらすのが精いっぱいだった。その後断捨離を始めて、衣装ケースの数が減っていき、洋室のクローゼットに納まりきる量になり、和室サイズの衣装ケースはすべて処分した。
こうして「樹の神様」の場所はぽっかり空いた。スーツケースがクローゼットに入りきらなかったが、「樹の神様」の場所とは違う角っこに置いてある。
実は「樹の神様」は断捨離をはじめた直接のきっかけではない。当時、自室に何千冊もの漫画を置いていたら床が抜けた人がいるというニュースを聞いて、自分の所持する本をざっと数えたら千冊を越えていて震えた。物が多いまま死んだら遺品の整理が大変であるばかりか、遺品を整理していたらBL漫画とBL小説とBL同人誌ばかりだったと言われそうな自分の本棚を見て戦慄した。それがきっかけだ。
断捨離のお作法なのかコンマリのお作法なのか忘れたが、服から始めるのがうまくいくコツなので、「樹の神様」のために服の整理からはじめたのはGJだったのだろう。
リサイクルショップやオークションで高値で売ろうとか、人にあげるなどして無駄をなくそうとかいうのは欲だ。そう思っているうちはいつまでも物は減らない。最初はとにかくガンガン捨てて、いたずらに物を増やしたことを後悔する、この後悔が再発を防ぐのだ。ある程度物が減ってくる頃には上手な処分や再利用のセンスが養われている。売るなり譲るなりしながら物を上手に減らせるようになるのはそれからだ。はじめから物が少なめならば上手くいくのかもしれないが。
スペースクリアリングをして何か現実的ないいことがあったかというと、答えはノーだ。書籍や記事で読んだ、片づけでお金や良い条件の仕事や恋愛や出世や欲しかった高価な物が舞い込む的なエピソードは、起爆剤にはなったけれど実際は起こらなかった。
スッキリしたならそれでいいではないか、というのは残念ながら自分には報酬にはならない。殊勝な心がけでもいい人でもないのだ。しかし断捨離したけどいいことなかった!と誰かに言われたら、スッキリしたならそれでいいではないかと答える。
こうして第一次断捨離は終了したが、余計な物を増やさないという意味で断捨離はライフワークだ。第二次断捨離に手をつけて、夢の中にいつも出てくる物の少ないシンプルな部屋になればいい。報酬は無いだろうけど、いつ死んでも安心だ。終活のひとつだ。
引っ越しを考えているけれど、「樹の神様」は一緒に来てくれるだろうか。「樹の神様」は家につくのか、人につくのか。現実世界の樹だけでなく、「樹の神様」とも話したい。
追記:物を減らすことを「断捨離」「スペースクリアリング」と表現している。参考書籍は断捨離本/コンマリ本/カレン本
2014年12月16日火曜日
2014年12月13日土曜日
朝の神託的な何か(その2)
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在が、朝のまどろみの中で残すメッセージについてまとめると、
・日本語の場合、一回のみ。
・外国語の場合、繰り返してくれる。
日本語でのメッセージは禅問答みたいで意味不明。外国語も単語や短文で日本語訳こそできるが何を伝えたいのか不明だ。ただし単語の勉強にはなる。前回日本語のメッセージをさらしたので今回は外国語のメッセージをさらす。ちなみに英語ではない。
・古い(単語)
古いってなんていうんだっけ?超基本的な形容詞である。調べればすぐわかる。しかしそのときはやさぐれてやる気がなくて眠くて3日ほど放置していた。すると朝方聴こえたのである。耳で聴こえたのではなく、夢の中の声みたいに頭の中に音があるかんじで。
何度も繰り返すから印象に残り、起きてから調べようとしたもの何語かわからない。音から判断してGoogle翻訳でテキトーにアルファベットを並べたら「古い」という意味だった。SUGEEEEE!
しかし、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからないけれどスーパー人外のハイパワーをこんなプリミティブな単語を引くための辞書替わりに使うだなんてもったいない!と激しく反省したものだ。
・まるで群像のようだ(短文)
最初に聴こえたのがコレで、何日も続けて毎朝聴こえるので朝の神託的なメッセージがあるのだと信じてしまった原因である。実は像という単語を知らなくて、音からテキトーにアルファベットを並べてみたら、像という意味だったという儲けモノだった。
しかし、何を伝えたかったのか。
さてさて、こんなかんじで朝の神託的なメッセージを受信したりしなかったりする毎日を過ごし、きちんとカウントしていないのでざっくり3ヵ月ぐらい経っただろうか、ついに進化を遂げたのである。
出かける予定があるのに二度寝してしまったとき、外国語で繰り返し聴こえてきた。短い文で単語は全部知っている基礎的なものだったが、半分寝ている状態で母国語でないから、何を言っているか理解するまで暫しかかった。
「行かないの?」
そうだ、今日こそ行かなければ。何度か断念した予定で、そろそろ行かないとまずいと思っていたところだった。
ここで気がついた。いままでの意味不明なメッセージと違い、意味がわかるのだ。辞書になってくれたのも疑問に答えてくれたのだから意味があったのだけれど、これはそのハイグレード版なのである。しかも二人称が単数形で親しげな口調である。
日本語だと禅問答で一回こっきり、外国語だと単語の少ない初級の短文で繰り返し。ついに意味のあるメッセージが来たのは外国語。ということは。
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在は、日本人ではないために日本語が苦手なのかもしれない。いやあっちの世界には言葉は無いはず。もしかして人間の経験があるのかもしれない。
気功の先生が言うには、その国の神話にでてくる存在がバックについているそうである。先生はサードアイでビジョンが視えるそうだ。自分はサードアイでビジョンなど視えない駄目生徒だし、先生は神話について全然知らないので、なんとも眉唾な話ではある。
本当だとしても、つじつまが合わない点がある。神話の時代と今では言葉が異なるのだ。古代語と現代語は違う。なのに朝の神託は自分が充分理解できる現代語なのだ。
まさか、レッスン中なのだろうか。外国語より母国語の現代語を習うほうが楽だから、外国語はそこそこ意味のある内容、日本語のほうはまだ使いこなせていないのだったら面白い。
ところで寝る前に明日◎時に起こして、と頼むと翌朝きちんとその時間に目が覚める。目覚ましやアラームのたぐいは使わないでOK。ただし、目が覚めてから身体を起こして活動するのは自分でやらないといけないので、二度寝までは防いでくれない。
だから「行かないの?」と聴こえた日に身体を起こして時間を見たら、まだ間に合う時間だったので行ってきた。意味さえわかれば活用するよ!ということを示してあげれば、メッセージを伝える側がやる気を維持してくれるのではないかと思う。
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在がもうひとりの自分なら、結果が出ない努力は絶対にしたくないはずだから。
・日本語の場合、一回のみ。
・外国語の場合、繰り返してくれる。
日本語でのメッセージは禅問答みたいで意味不明。外国語も単語や短文で日本語訳こそできるが何を伝えたいのか不明だ。ただし単語の勉強にはなる。前回日本語のメッセージをさらしたので今回は外国語のメッセージをさらす。ちなみに英語ではない。
・古い(単語)
古いってなんていうんだっけ?超基本的な形容詞である。調べればすぐわかる。しかしそのときはやさぐれてやる気がなくて眠くて3日ほど放置していた。すると朝方聴こえたのである。耳で聴こえたのではなく、夢の中の声みたいに頭の中に音があるかんじで。
何度も繰り返すから印象に残り、起きてから調べようとしたもの何語かわからない。音から判断してGoogle翻訳でテキトーにアルファベットを並べたら「古い」という意味だった。SUGEEEEE!
しかし、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからないけれどスーパー人外のハイパワーをこんなプリミティブな単語を引くための辞書替わりに使うだなんてもったいない!と激しく反省したものだ。
・まるで群像のようだ(短文)
最初に聴こえたのがコレで、何日も続けて毎朝聴こえるので朝の神託的なメッセージがあるのだと信じてしまった原因である。実は像という単語を知らなくて、音からテキトーにアルファベットを並べてみたら、像という意味だったという儲けモノだった。
しかし、何を伝えたかったのか。
さてさて、こんなかんじで朝の神託的なメッセージを受信したりしなかったりする毎日を過ごし、きちんとカウントしていないのでざっくり3ヵ月ぐらい経っただろうか、ついに進化を遂げたのである。
出かける予定があるのに二度寝してしまったとき、外国語で繰り返し聴こえてきた。短い文で単語は全部知っている基礎的なものだったが、半分寝ている状態で母国語でないから、何を言っているか理解するまで暫しかかった。
「行かないの?」
そうだ、今日こそ行かなければ。何度か断念した予定で、そろそろ行かないとまずいと思っていたところだった。
ここで気がついた。いままでの意味不明なメッセージと違い、意味がわかるのだ。辞書になってくれたのも疑問に答えてくれたのだから意味があったのだけれど、これはそのハイグレード版なのである。しかも二人称が単数形で親しげな口調である。
日本語だと禅問答で一回こっきり、外国語だと単語の少ない初級の短文で繰り返し。ついに意味のあるメッセージが来たのは外国語。ということは。
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在は、日本人ではないために日本語が苦手なのかもしれない。いやあっちの世界には言葉は無いはず。もしかして人間の経験があるのかもしれない。
気功の先生が言うには、その国の神話にでてくる存在がバックについているそうである。先生はサードアイでビジョンが視えるそうだ。自分はサードアイでビジョンなど視えない駄目生徒だし、先生は神話について全然知らないので、なんとも眉唾な話ではある。
本当だとしても、つじつまが合わない点がある。神話の時代と今では言葉が異なるのだ。古代語と現代語は違う。なのに朝の神託は自分が充分理解できる現代語なのだ。
まさか、レッスン中なのだろうか。外国語より母国語の現代語を習うほうが楽だから、外国語はそこそこ意味のある内容、日本語のほうはまだ使いこなせていないのだったら面白い。
ところで寝る前に明日◎時に起こして、と頼むと翌朝きちんとその時間に目が覚める。目覚ましやアラームのたぐいは使わないでOK。ただし、目が覚めてから身体を起こして活動するのは自分でやらないといけないので、二度寝までは防いでくれない。
だから「行かないの?」と聴こえた日に身体を起こして時間を見たら、まだ間に合う時間だったので行ってきた。意味さえわかれば活用するよ!ということを示してあげれば、メッセージを伝える側がやる気を維持してくれるのではないかと思う。
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在がもうひとりの自分なら、結果が出ない努力は絶対にしたくないはずだから。
2014年12月10日水曜日
朝の神託的な何か(その1)
樹木と比べたら、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在は人間の言葉を操れるようである。あの世はnon-verbalな世界であるけれど、人間をやっていた経験があるのかもしれない。
単語や短いフレーズが伝わることがある。夢なのかもしれないが、夢は映像付きだ。音だけなのである。耳ではなく頭の中で伝わる、夢の中での音。
朝起きた直後の、半分寝ているようなときだ。だから忘れてしまうこともある。半分寝ているから身体を動かせず、スマホにメモができないので、忘れないように何度も頭の中で繰り返して覚えようとする。このがんばりを他のことに応用できれば!
音で伝わるので、同じ発音の漢字が複数ある場合、どれだかわからない。前後の文脈があるような長い文ではなく単語や短いフレーズなので、結局何なのかわからないこともある。
日本語とは限らない。知っている国の言語のときもあるし、何語かわからないこともある。わからないときは音から綴りを推測してアルファベットを並べて、Google翻訳で試行錯誤してみて、わかるときもあればわからないときもある。
毎日とは限らないが、単に忘れているだけで実は毎日なのかもしれない。
例を晒してみる。
「水はすべて水とは限らない」
うん、そうだね。水道水やミネラルウォーターは、水分子H2Oだけじゃないね。ミネラルやら入っている。水中だと電離して金属イオンいやそういう直接的なことではないのではないか?啓示って直接的じゃないのが定番。
人間は見えているものを見るのではなく見たいものを見る、真実を信じるのではなく信じたいことを信じる生き物なので、そういった主観という洗面器に顔を突っ込んでいる状態から少し引いて物事の多面性を見ろ、ということなのだと解釈した。けれど、それは既に自分の中ではセオリーだ。ということはまた別の意味なのかもしれない。
まるで禅問答だ。
「心の変容のルール」
いきなり禅問答でわからなすぎたので、変化と変容の違いをググってみたところ、漢字から推測される意味とは若干異なっていた。変化はchange、変容はtransformation。変化は小さい、変容はガラっと変わる。変化は徐々に、変容は突然。
変容は成長曲線を想起させる。心が変化でなく変容するのであれば、きっと戸惑うだろう。いや、自分自身は変容したことに気づかないかもしれない。まるで寄生獣の泉くんのように。気づくにしても気づかないにしても、変容と言えるぐらい変わったら面白い。
しかし変容ってわかりづらいな。もしかして、changeとtransformationとtransfigurationの日本語訳に困って、変化と変容と変貌にしたんじゃね?
一方外国語の場合はメリットがある。知らない言葉を覚えたり、忘れていた言葉を思い出したり。何を伝えたいかわからなくても充分ラッキー。しかも、日本語は一回だけで繰り返し無しだから自力で繰り返して忘れないようにがんばるけど、外国語は繰り返してくれるところがヌクモリティー。
知らない言葉を神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在から教わるというのはファンタジックだが、実際は知らないのではなく忘れていたことさえ忘れていただけかもしれない。
数字が聴こえたことがあり、日本語だったので一回だけ、しかも単純な羅列だったので覚えられなかった。電話番号ぐらいの桁数だったが電話番号っぽくなかった。もしかしてロトの当たり番号だったのだろうか。
単語や短いフレーズが伝わることがある。夢なのかもしれないが、夢は映像付きだ。音だけなのである。耳ではなく頭の中で伝わる、夢の中での音。
朝起きた直後の、半分寝ているようなときだ。だから忘れてしまうこともある。半分寝ているから身体を動かせず、スマホにメモができないので、忘れないように何度も頭の中で繰り返して覚えようとする。このがんばりを他のことに応用できれば!
音で伝わるので、同じ発音の漢字が複数ある場合、どれだかわからない。前後の文脈があるような長い文ではなく単語や短いフレーズなので、結局何なのかわからないこともある。
日本語とは限らない。知っている国の言語のときもあるし、何語かわからないこともある。わからないときは音から綴りを推測してアルファベットを並べて、Google翻訳で試行錯誤してみて、わかるときもあればわからないときもある。
毎日とは限らないが、単に忘れているだけで実は毎日なのかもしれない。
例を晒してみる。
「水はすべて水とは限らない」
うん、そうだね。水道水やミネラルウォーターは、水分子H2Oだけじゃないね。ミネラルやら入っている。水中だと電離して金属イオンいやそういう直接的なことではないのではないか?啓示って直接的じゃないのが定番。
人間は見えているものを見るのではなく見たいものを見る、真実を信じるのではなく信じたいことを信じる生き物なので、そういった主観という洗面器に顔を突っ込んでいる状態から少し引いて物事の多面性を見ろ、ということなのだと解釈した。けれど、それは既に自分の中ではセオリーだ。ということはまた別の意味なのかもしれない。
まるで禅問答だ。
「心の変容のルール」
いきなり禅問答でわからなすぎたので、変化と変容の違いをググってみたところ、漢字から推測される意味とは若干異なっていた。変化はchange、変容はtransformation。変化は小さい、変容はガラっと変わる。変化は徐々に、変容は突然。
変容は成長曲線を想起させる。心が変化でなく変容するのであれば、きっと戸惑うだろう。いや、自分自身は変容したことに気づかないかもしれない。まるで寄生獣の泉くんのように。気づくにしても気づかないにしても、変容と言えるぐらい変わったら面白い。
しかし変容ってわかりづらいな。もしかして、changeとtransformationとtransfigurationの日本語訳に困って、変化と変容と変貌にしたんじゃね?
一方外国語の場合はメリットがある。知らない言葉を覚えたり、忘れていた言葉を思い出したり。何を伝えたいかわからなくても充分ラッキー。しかも、日本語は一回だけで繰り返し無しだから自力で繰り返して忘れないようにがんばるけど、外国語は繰り返してくれるところがヌクモリティー。
知らない言葉を神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかわからない存在から教わるというのはファンタジックだが、実際は知らないのではなく忘れていたことさえ忘れていただけかもしれない。
数字が聴こえたことがあり、日本語だったので一回だけ、しかも単純な羅列だったので覚えられなかった。電話番号ぐらいの桁数だったが電話番号っぽくなかった。もしかしてロトの当たり番号だったのだろうか。
2014年12月7日日曜日
樹木と話す(その2)
神社や公園によく行くのは、古木目当てである。
神社に願かけしてもちっとも叶わないし、願かけしないで感謝だけするのもやってみたが、何がどうなるわけでもない。だから古木目当てになった。神社は清浄を旨としているので綺麗に手入れされていているし、初詣の時期以外は空いている。入場料いらないし。
土地の割に人口が多い東京では広大な公園はおそらくその上にビルを建てられないようなヤバいものが埋まっているだろうなとは思うけど、霊感も無いし、例の蚊の騒ぎのとき以外は気軽に行っている。ただ神社よりは人が多いので神社に行くついでぐらいのポジションにしている。
人が少ない方が良くて、樹が好きなら田舎に行けと言われそうだが、手つかずの自然は恐怖でしかない。畏敬の念をいだかせる何かがある。手入れされた自然が好きなのだ。それに公共交通機関が便利でないと、体力の少ない自分には不安だ。これでも2年ほど前にパワースポットによく行くようになった頃に比べたら随分歩く距離も増えたけれど。
樹への挨拶は、ポンと触ったり、手を当ててしばらくじっとしたり、触れない場所にあれば気を樹の下から上に回して自分の上から下に回して巡らせてみたり、ただし気感は薄いのでできているかどうかは不明だ。神社や公園の敷地内にある太い樹に対して挨拶したり話しかけたりしていた。
しかし樹は他にもある。街路樹である。神社や公園にあるのよりは細いが、車道の脇で車の騒音や排気ガスを浴びながら、ゴミ置き場にされたり看板をくくりつけられたり電飾をぶらさげられたりしながらも健気に生きている。
街路樹の存在がクローズアップされたのだ。それまであまり意識していなかった。人間の目は視覚情報を受信するが脳で情報の取捨選択が実行される。花が咲くなど大きな変化が無いと見ようとしない。それが、たいした変化もない季節に街路樹がある、ここにある、あそこにもある、ずっとおなじ種類の樹が並んでいる、とはっきり意識したのだ。
赤坂の方道6車線ある広い道路脇の街路樹が、大きな存在感を持って一本一本がまさに樹立していた。だからポン、ポンと一本ずつ触って、ときおり話しかけてゆっくり歩いた。ハタから見れば樹につかまらないと歩けないお年寄り状態である。樹は何か訴えているようにも見えるし、単に「見て!」と言っているようにも感じた。non-verbalなコミュニケーションを樹が投げかけてくれているのである。
しかし、何を言いたいのかわからない。
せめて触って、綺麗だね、今日は寒いね、車道脇って大変だねと話しかけるのが精いっぱい。
気功の練習もサボりがちで、気功教室に行くより神社に行くほうが魅力的に思えて新宿の諏訪神社に行ったのである。神社に到着するまでの道に街路樹があった。街路樹が物言いたげなのだが、相変わらずわからないのでポンポンと挨拶をして、神社に到着した。
ああ、なんということだ。拝殿の右手が広めの空間で、そこに古木がたくさん。立派な樹木が芸術的な群像のようだ。
街路樹は神社の古木よりはだいぶ若い。長い年月を神社という神域で生き続けた樹の先輩に、敬意を持っているのではないだろうか。そして、多少なりとも樹の訴えがわかる自分に対し「いらっしゃい!すごい先輩いますよ!こっちこっち!」と呼びこんでいたのではないか。ご都合主義な解釈だけれど。
このnon-verbal翻訳が正しいのではと考えたのは、別の場所で同じことがあったからである。
九段下に向かって歩いていたところ、やけに街路樹が物言いたげだった。ポンポンと触ったり、ときには立ち止まって触りがてら挨拶したり。このとき、人間と樹が存在していた。人間の目は見えるものを背景と動体に分けて、背景はいつも同じな道路や建物、動体は人間など動くものだ。車も動体なのだが車道を渡るとき以外はあまり意識せず、歩道で何かいる、と認識するのは人間や散歩中の犬などの生き物である。しかし、そのときは人間と樹がいる、という感覚だった。頭がおかしいのかもしれない。でも口に出さなければバレない。多分。
そして、見つけたのだ。お掘りの縁に太い幹を持つ、相当樹齢の高いであろう親分みたいな樹を。こんなところにこんなに大きな樹があるのに気づいていなかった。いつも違う道を使っていたせいでもあるのだが、この日は街路樹に導かれるように歩いているうち、親分に引き合わされた。「やっとこの道を通ったね!すごい先輩いますよ!こっちこっち!」
そうすると、問題は赤坂である。
近くに古木は、覚えている限り無いのである。豊川稲荷には樹木があったはずだけど、例の街路樹とは少し離れている。覚えていないだけで実は存在していたというのはよくあることなので、きっと何かあるのだろうが、わからずに時は過ぎた。
銀杏の季節。出かけるのに経路が2種類あったのだが、出がけになぜか急に赤坂側から行こうという気になった。そこで見たのだ、赤坂の街路樹は見事に黄色くなっていた。銀杏の樹だったのだ。今まで銀杏だと気づいていなかった、葉っぱの形が明らかに銀杏だったのに。綺麗だよ、秋だねと話しかけながら歩き、一旦街路樹は途絶える。しかし豊川稲荷まで行くと、背の高い大木が、やはり銀杏だったのだ。
「見て!」で正解だったのだろう。自分たちの葉が黄色くなる見ごろを見てほしかったし、少し離れているけれど親分のことも知らせたかったのだろう。
すっかりやり遂げた気分なので古木趣味はやめるかも。
神社に願かけしてもちっとも叶わないし、願かけしないで感謝だけするのもやってみたが、何がどうなるわけでもない。だから古木目当てになった。神社は清浄を旨としているので綺麗に手入れされていているし、初詣の時期以外は空いている。入場料いらないし。
土地の割に人口が多い東京では広大な公園はおそらくその上にビルを建てられないようなヤバいものが埋まっているだろうなとは思うけど、霊感も無いし、例の蚊の騒ぎのとき以外は気軽に行っている。ただ神社よりは人が多いので神社に行くついでぐらいのポジションにしている。
人が少ない方が良くて、樹が好きなら田舎に行けと言われそうだが、手つかずの自然は恐怖でしかない。畏敬の念をいだかせる何かがある。手入れされた自然が好きなのだ。それに公共交通機関が便利でないと、体力の少ない自分には不安だ。これでも2年ほど前にパワースポットによく行くようになった頃に比べたら随分歩く距離も増えたけれど。
樹への挨拶は、ポンと触ったり、手を当ててしばらくじっとしたり、触れない場所にあれば気を樹の下から上に回して自分の上から下に回して巡らせてみたり、ただし気感は薄いのでできているかどうかは不明だ。神社や公園の敷地内にある太い樹に対して挨拶したり話しかけたりしていた。
しかし樹は他にもある。街路樹である。神社や公園にあるのよりは細いが、車道の脇で車の騒音や排気ガスを浴びながら、ゴミ置き場にされたり看板をくくりつけられたり電飾をぶらさげられたりしながらも健気に生きている。
街路樹の存在がクローズアップされたのだ。それまであまり意識していなかった。人間の目は視覚情報を受信するが脳で情報の取捨選択が実行される。花が咲くなど大きな変化が無いと見ようとしない。それが、たいした変化もない季節に街路樹がある、ここにある、あそこにもある、ずっとおなじ種類の樹が並んでいる、とはっきり意識したのだ。
赤坂の方道6車線ある広い道路脇の街路樹が、大きな存在感を持って一本一本がまさに樹立していた。だからポン、ポンと一本ずつ触って、ときおり話しかけてゆっくり歩いた。ハタから見れば樹につかまらないと歩けないお年寄り状態である。樹は何か訴えているようにも見えるし、単に「見て!」と言っているようにも感じた。non-verbalなコミュニケーションを樹が投げかけてくれているのである。
しかし、何を言いたいのかわからない。
せめて触って、綺麗だね、今日は寒いね、車道脇って大変だねと話しかけるのが精いっぱい。
気功の練習もサボりがちで、気功教室に行くより神社に行くほうが魅力的に思えて新宿の諏訪神社に行ったのである。神社に到着するまでの道に街路樹があった。街路樹が物言いたげなのだが、相変わらずわからないのでポンポンと挨拶をして、神社に到着した。
ああ、なんということだ。拝殿の右手が広めの空間で、そこに古木がたくさん。立派な樹木が芸術的な群像のようだ。
街路樹は神社の古木よりはだいぶ若い。長い年月を神社という神域で生き続けた樹の先輩に、敬意を持っているのではないだろうか。そして、多少なりとも樹の訴えがわかる自分に対し「いらっしゃい!すごい先輩いますよ!こっちこっち!」と呼びこんでいたのではないか。ご都合主義な解釈だけれど。
このnon-verbal翻訳が正しいのではと考えたのは、別の場所で同じことがあったからである。
九段下に向かって歩いていたところ、やけに街路樹が物言いたげだった。ポンポンと触ったり、ときには立ち止まって触りがてら挨拶したり。このとき、人間と樹が存在していた。人間の目は見えるものを背景と動体に分けて、背景はいつも同じな道路や建物、動体は人間など動くものだ。車も動体なのだが車道を渡るとき以外はあまり意識せず、歩道で何かいる、と認識するのは人間や散歩中の犬などの生き物である。しかし、そのときは人間と樹がいる、という感覚だった。頭がおかしいのかもしれない。でも口に出さなければバレない。多分。
そして、見つけたのだ。お掘りの縁に太い幹を持つ、相当樹齢の高いであろう親分みたいな樹を。こんなところにこんなに大きな樹があるのに気づいていなかった。いつも違う道を使っていたせいでもあるのだが、この日は街路樹に導かれるように歩いているうち、親分に引き合わされた。「やっとこの道を通ったね!すごい先輩いますよ!こっちこっち!」
そうすると、問題は赤坂である。
近くに古木は、覚えている限り無いのである。豊川稲荷には樹木があったはずだけど、例の街路樹とは少し離れている。覚えていないだけで実は存在していたというのはよくあることなので、きっと何かあるのだろうが、わからずに時は過ぎた。
銀杏の季節。出かけるのに経路が2種類あったのだが、出がけになぜか急に赤坂側から行こうという気になった。そこで見たのだ、赤坂の街路樹は見事に黄色くなっていた。銀杏の樹だったのだ。今まで銀杏だと気づいていなかった、葉っぱの形が明らかに銀杏だったのに。綺麗だよ、秋だねと話しかけながら歩き、一旦街路樹は途絶える。しかし豊川稲荷まで行くと、背の高い大木が、やはり銀杏だったのだ。
「見て!」で正解だったのだろう。自分たちの葉が黄色くなる見ごろを見てほしかったし、少し離れているけれど親分のことも知らせたかったのだろう。
すっかりやり遂げた気分なので古木趣味はやめるかも。
2014年12月4日木曜日
樹木と話す(その1)
その昔、「遙かなる時空の中で」というコーエーの恋愛シュミレーションゲームに没頭していた。1~4まで同じキャスト(声優)だったから、石田さんといえばキャラの顔のひとりふたり浮かぶかもしれない。最初の遙かでは、石田さんは陰陽師・安倍泰明を演じていた。
泰明が連理の榊(れんりのさかき)という名前がついた樹木に手を当てているシーン。
泰明「ふむ、ふむ。わかった。(あかねと永泉にむかって)ここに気を発する札のようなものは無いそうだ」
あかね「えっ」
永泉「えっ」
あかね「泰明さん、樹とお話できるんですか?」
泰明「おまえはできないのか?」
できるかッ!とプレイヤーが突っ込むところである。いや、あかね(主人公の女の子)も突っ込んでいたような。
このときはできなかった。だから突っ込んだ。今は中途半端にできる。ような気がする。
よく樹木や花や石に話しかけるのだけど、実際声に出すと変質者として通報されそうなので、心の中で囁くことにしている。内容は綺麗だねとか姿を見せてくれてありがとうとかの称賛もしくは暑いね寒いねとかの挨拶である。
最もよく話すのは樹木で、2年ほど前から話す機会が増えた。言葉で話しかけ、返答があるみたいなのだけど樹木はnon-verbalなコミュニケーションをするので、何を言っているのかさっぱりわからない。
樹木にてのひらをあてたとき、まず暖かいとか冷たいとかの温度が誰でもわかるだろう。外の暑さ寒さと必ずしも一致しないのがかれらが生きている証である。そしてひと呼吸遅れて、レスポンスが返ってくる。てのひらの真ん中になんとなくほわんと感じる感触。あくまで薄く淡い感覚である。単にてのひらのくぼみにあった空気が樹皮との間で暖まっただけなのかもしれない。
気功教室に通うようになって、若干の変化があった。
教室で1時間ほど練功(気功の練習)をした帰り、湯島聖堂の樹に近寄ると、樹が何か言いたいのだなとわかった。耳で聞こえたわけでも頭の中に何か映像が見えたわけでもない。なんとなく、わかった。気のせいかもしれない。頭がおかしいのかもしれない。そう思いたいだけかもしれない。が、その樹はとにかく誰かと話したくてたまらないようだ。
しかし自分はまだ樹のnon-verbalコミュニケーションを解釈できない。詳細な会話はもちろん、一体何を聞いてほしいのかという核心の部分もさっぱりだ。とりあえず葉っぱが一部枯れていたこともあり、気功教室で習った気を入れる方法をやってあげたかったのだけど、何しろまだ通い始めてひと月で、気がわかるわけでもないのでフリだけである。
後日、やはり練功した帰りに新宿の神社で御神木に手を当てると、てのひらだけでなく足先までじわ~んとしたのだ。しかし対話はできなかった。こちらから一方的に御神木と神社への好意を言葉で伝えた。
小石川植物園に行ったとき事件は起こった。気功教室が無い日で、かえで並木が続く道を歩いているときふと一本のかえでに触った。暑い季節に涼しげな緑色の葉が屋根のようになっていて、枝ぶりもなかなかで、いつものように称賛を伝えるためである。
しかし、その樹からはなんとも悲しい、胸がきゅっとなるような哀しさが伝わってきた。樹木は動けないから寂しいというような感情が。
小石川植物園の入場は有料である。駅からちょっと離れている。広大な敷地を歩いて見て回る。平日でしかも暑い日だったせいか、入場者の殆どは椅子が置いてある所でグデーッとしたり、さっさと歩いてひととおり見て帰るパターン。研究施設も兼ねているから職員はいるしカエルが鳴いていたりするのだけれど、寂しい場所ではある。
並木だから隣にお仲間はいる。それでも寂しいというのは何が足りないのか、入場者なのか馴染みの職員さんなのか、具体的な寂しさの原因はわからなかった。
気功教室に通ってふた月が経過していたが、気の感覚はまだなく、気を入れるフリがせめてもの慰めになったのならよいのだけれど。
気功の先生に話したら、樹を植えかえると枯れちゃうよ?って言えばどうかと言われた。普通の人に比べたら変人だけど気功を極めた人から見れば凡人な自分には、だから何?な回答だったw
半年通っても気感は無いし気を入れることもできないのでめんどくさくなってきた頃、樹に呼ばれた。呼ばれるというのは正確な言い方ではない、なんとなく行かなければならない気持ちになったのである。しかし呼ばれたのは、スーパーで買い物して重い袋を抱えていたときだ。スーパーから遠回りして帰る途中にハクモクレンの樹と古い桜の樹がある。気功を習う少し前に何度か見に行って一歩的に話しかけた樹である。
買い物袋が重いときに遠回りなんていう人間の都合など知ったことではないのだ。しかし人間だって、樹木や花や石の都合なんか気にしない。
花の季節だけじゃなくても来い、と言われたような気がした。この「花の季節だけじゃなくても来い」というのは、この言葉のとおりに頭の中に言葉が浮かんだわけではない。なんとなく行かなきゃという気持ちになり、おそらくそう言ってるんだろうなと解釈してブログで伝えるために日本語に翻訳したものだ。いきなり意訳しなければならない。直訳できない、それがnon-verbal翻訳である。
そんなことを考えながらヨロヨロと辿りつくと。ああ、なんてことだ。今まで御無沙汰で悪かった。花の季節でなくても美しい!お見事!綺麗だよ!
この桜の古木は小さな会社の構内にあり、まわりをコンクリで固められて、すぐ隣はブロック塀で、おそらくこの会社のビルを建てるときに切ろうという案が出たのだろう。しかしなんとか生き残り、春にはそれはそれは綺麗な花を咲かせる。よく生き残ってくれた、今年も咲いてくれてありがとうと言うと、ザザーとおだやかな風とともに花吹雪を散らしてくれたことがある。それまで無風だったのにまるでお礼を言うかのように。
「ありがとう」なのか、「オマエもがんばれよ!」なのかはわからない。
思い込みや偶然と思うなら思えばいい。思わないところにnon-verbal翻訳の真髄がある。verbalな翻訳だって相手が何を言いたいのかに興味を持つことからはじまる。
気功を始めて8ヶ月。気感はいまだ無い。
泰明が連理の榊(れんりのさかき)という名前がついた樹木に手を当てているシーン。
泰明「ふむ、ふむ。わかった。(あかねと永泉にむかって)ここに気を発する札のようなものは無いそうだ」
あかね「えっ」
永泉「えっ」
あかね「泰明さん、樹とお話できるんですか?」
泰明「おまえはできないのか?」
できるかッ!とプレイヤーが突っ込むところである。いや、あかね(主人公の女の子)も突っ込んでいたような。
このときはできなかった。だから突っ込んだ。今は中途半端にできる。ような気がする。
よく樹木や花や石に話しかけるのだけど、実際声に出すと変質者として通報されそうなので、心の中で囁くことにしている。内容は綺麗だねとか姿を見せてくれてありがとうとかの称賛もしくは暑いね寒いねとかの挨拶である。
最もよく話すのは樹木で、2年ほど前から話す機会が増えた。言葉で話しかけ、返答があるみたいなのだけど樹木はnon-verbalなコミュニケーションをするので、何を言っているのかさっぱりわからない。
樹木にてのひらをあてたとき、まず暖かいとか冷たいとかの温度が誰でもわかるだろう。外の暑さ寒さと必ずしも一致しないのがかれらが生きている証である。そしてひと呼吸遅れて、レスポンスが返ってくる。てのひらの真ん中になんとなくほわんと感じる感触。あくまで薄く淡い感覚である。単にてのひらのくぼみにあった空気が樹皮との間で暖まっただけなのかもしれない。
気功教室に通うようになって、若干の変化があった。
教室で1時間ほど練功(気功の練習)をした帰り、湯島聖堂の樹に近寄ると、樹が何か言いたいのだなとわかった。耳で聞こえたわけでも頭の中に何か映像が見えたわけでもない。なんとなく、わかった。気のせいかもしれない。頭がおかしいのかもしれない。そう思いたいだけかもしれない。が、その樹はとにかく誰かと話したくてたまらないようだ。
しかし自分はまだ樹のnon-verbalコミュニケーションを解釈できない。詳細な会話はもちろん、一体何を聞いてほしいのかという核心の部分もさっぱりだ。とりあえず葉っぱが一部枯れていたこともあり、気功教室で習った気を入れる方法をやってあげたかったのだけど、何しろまだ通い始めてひと月で、気がわかるわけでもないのでフリだけである。
後日、やはり練功した帰りに新宿の神社で御神木に手を当てると、てのひらだけでなく足先までじわ~んとしたのだ。しかし対話はできなかった。こちらから一方的に御神木と神社への好意を言葉で伝えた。
小石川植物園に行ったとき事件は起こった。気功教室が無い日で、かえで並木が続く道を歩いているときふと一本のかえでに触った。暑い季節に涼しげな緑色の葉が屋根のようになっていて、枝ぶりもなかなかで、いつものように称賛を伝えるためである。
しかし、その樹からはなんとも悲しい、胸がきゅっとなるような哀しさが伝わってきた。樹木は動けないから寂しいというような感情が。
小石川植物園の入場は有料である。駅からちょっと離れている。広大な敷地を歩いて見て回る。平日でしかも暑い日だったせいか、入場者の殆どは椅子が置いてある所でグデーッとしたり、さっさと歩いてひととおり見て帰るパターン。研究施設も兼ねているから職員はいるしカエルが鳴いていたりするのだけれど、寂しい場所ではある。
並木だから隣にお仲間はいる。それでも寂しいというのは何が足りないのか、入場者なのか馴染みの職員さんなのか、具体的な寂しさの原因はわからなかった。
気功教室に通ってふた月が経過していたが、気の感覚はまだなく、気を入れるフリがせめてもの慰めになったのならよいのだけれど。
気功の先生に話したら、樹を植えかえると枯れちゃうよ?って言えばどうかと言われた。普通の人に比べたら変人だけど気功を極めた人から見れば凡人な自分には、だから何?な回答だったw
半年通っても気感は無いし気を入れることもできないのでめんどくさくなってきた頃、樹に呼ばれた。呼ばれるというのは正確な言い方ではない、なんとなく行かなければならない気持ちになったのである。しかし呼ばれたのは、スーパーで買い物して重い袋を抱えていたときだ。スーパーから遠回りして帰る途中にハクモクレンの樹と古い桜の樹がある。気功を習う少し前に何度か見に行って一歩的に話しかけた樹である。
買い物袋が重いときに遠回りなんていう人間の都合など知ったことではないのだ。しかし人間だって、樹木や花や石の都合なんか気にしない。
花の季節だけじゃなくても来い、と言われたような気がした。この「花の季節だけじゃなくても来い」というのは、この言葉のとおりに頭の中に言葉が浮かんだわけではない。なんとなく行かなきゃという気持ちになり、おそらくそう言ってるんだろうなと解釈してブログで伝えるために日本語に翻訳したものだ。いきなり意訳しなければならない。直訳できない、それがnon-verbal翻訳である。
そんなことを考えながらヨロヨロと辿りつくと。ああ、なんてことだ。今まで御無沙汰で悪かった。花の季節でなくても美しい!お見事!綺麗だよ!
この桜の古木は小さな会社の構内にあり、まわりをコンクリで固められて、すぐ隣はブロック塀で、おそらくこの会社のビルを建てるときに切ろうという案が出たのだろう。しかしなんとか生き残り、春にはそれはそれは綺麗な花を咲かせる。よく生き残ってくれた、今年も咲いてくれてありがとうと言うと、ザザーとおだやかな風とともに花吹雪を散らしてくれたことがある。それまで無風だったのにまるでお礼を言うかのように。
「ありがとう」なのか、「オマエもがんばれよ!」なのかはわからない。
思い込みや偶然と思うなら思えばいい。思わないところにnon-verbal翻訳の真髄がある。verbalな翻訳だって相手が何を言いたいのかに興味を持つことからはじまる。
気功を始めて8ヶ月。気感はいまだ無い。
2014年12月1日月曜日
ロクシアス(斜めの)
ロクシアスというのはアポロンの異名である。アポロンというのはギリシャ神話の神で、困ったことがあるとデルフォイにアポロンの神託を求めに行くわけだが、その神託が何を言っているのかわからない内容で、結局ヒドイ目に遭う。「子宝に恵まれないんです!」という悩みに対し「酒袋の口を解くな」とかね、斜めな神託ばっかり。だからロクシアス(斜めの)と呼ばれてしまう可哀想なアポロン。
未来の予言も何を言っているかわからないことが多い。なつかしいところではノストラダムス、昨今2chに登場する匿名の予言者も同じく。だからアポロンだけが悪いわけじゃない。けど、どうして予言とか神託はイミフなのか!?
1.自分で考えて行動して経験値を積ませるため
2.はっきり言っちゃうと未来が変わってしまって(以下言い訳
3.だって、予言によって楽しちゃったらつまんないし
アポロンの場合3ダロw
しかしこれら1~3の理由の大前提は、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、人でないモノと言葉でコミュニケーションが取れるということなんである。
だいたい神というと白い髭を生やして白い服着たおじいさんが杖持って「わしは~じゃよ」口調で話すという絵本みたいなイメージ、そこをまず疑おう。だって、よく神事で細い筒にたくさん穀物が入ったら今年は豊作とか、ああいうの。言葉関係無いやつ。あれが神とのコミュニケーションじゃね?
ギリシャ神話だと神と人間が普通に会話してる。けれど聖書だと預言者、未来予言じゃなくて神の言葉を預かる人ね、その人が人間の言葉で伝えてくれるから一般人は神と対話できない。
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、そういう存在とはコミュニケーションの手段が違うのではないか。それも、英語と日本語みたいな違いではなく。
人間は言葉を口から発したり文字で書いたりすることにより意思疎通をする。verbalなコミュニケーションである。神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかはnon-verbalなコミュニケーションであるならば。
翻訳が難しいという問題が発生する。
相談者「子宝に恵まれないんです!」
神から降りてきたメッセージ「≡(( ´Д`)/≡=v( ̄Д ̄)v且⊂(゚∀゚*)」
↓
↓(翻訳中・・翻訳中・・)
↓
神託を伝える役割の人「えっと、酒袋の口を解くな、です」
実際はラリっておかしなことを口走ってただけかもしれないけど、イメージつまり映像や静止画像や概念みたいな抽象的なものが頭の中に浮かんだら、それをどう言葉で相手に伝えるかって、スキルの差が出そう。
non-verbalからverbalへの翻訳はおそらく英語から日本語みたいなverbal間より、遙かに難しいのではないか。
non-verbalなコミュニケーションというと、生まれて間もない赤子や動物の世話をするとき。いや赤子や動物は声を含めボディーランゲージがある。しかし神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、不思議な存在は姿が見えない。
だからこそ問題は翻訳である。
このブログの大前提は、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、不思議な存在は居る、という解釈である。
ずっとサイエンスとITに関わっていてオカルト大嫌いで科学で証明できないものは一切信じなかった自分が今ではこんなこと書くに至った話など書きつづっていこうと思うよ嗚呼そんな目で見るのはやめて!
未来の予言も何を言っているかわからないことが多い。なつかしいところではノストラダムス、昨今2chに登場する匿名の予言者も同じく。だからアポロンだけが悪いわけじゃない。けど、どうして予言とか神託はイミフなのか!?
1.自分で考えて行動して経験値を積ませるため
2.はっきり言っちゃうと未来が変わってしまって(以下言い訳
3.だって、予言によって楽しちゃったらつまんないし
アポロンの場合3ダロw
しかしこれら1~3の理由の大前提は、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、人でないモノと言葉でコミュニケーションが取れるということなんである。
だいたい神というと白い髭を生やして白い服着たおじいさんが杖持って「わしは~じゃよ」口調で話すという絵本みたいなイメージ、そこをまず疑おう。だって、よく神事で細い筒にたくさん穀物が入ったら今年は豊作とか、ああいうの。言葉関係無いやつ。あれが神とのコミュニケーションじゃね?
ギリシャ神話だと神と人間が普通に会話してる。けれど聖書だと預言者、未来予言じゃなくて神の言葉を預かる人ね、その人が人間の言葉で伝えてくれるから一般人は神と対話できない。
神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、そういう存在とはコミュニケーションの手段が違うのではないか。それも、英語と日本語みたいな違いではなく。
人間は言葉を口から発したり文字で書いたりすることにより意思疎通をする。verbalなコミュニケーションである。神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だかはnon-verbalなコミュニケーションであるならば。
翻訳が難しいという問題が発生する。
相談者「子宝に恵まれないんです!」
神から降りてきたメッセージ「≡(( ´Д`)/≡=v( ̄Д ̄)v且⊂(゚∀゚*)」
↓
↓(翻訳中・・翻訳中・・)
↓
神託を伝える役割の人「えっと、酒袋の口を解くな、です」
実際はラリっておかしなことを口走ってただけかもしれないけど、イメージつまり映像や静止画像や概念みたいな抽象的なものが頭の中に浮かんだら、それをどう言葉で相手に伝えるかって、スキルの差が出そう。
non-verbalからverbalへの翻訳はおそらく英語から日本語みたいなverbal間より、遙かに難しいのではないか。
non-verbalなコミュニケーションというと、生まれて間もない赤子や動物の世話をするとき。いや赤子や動物は声を含めボディーランゲージがある。しかし神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、不思議な存在は姿が見えない。
だからこそ問題は翻訳である。
このブログの大前提は、神だか守護霊だかハイヤーセルフだか魂だか知らないけど、不思議な存在は居る、という解釈である。
ずっとサイエンスとITに関わっていてオカルト大嫌いで科学で証明できないものは一切信じなかった自分が今ではこんなこと書くに至った話など書きつづっていこうと思うよ嗚呼そんな目で見るのはやめて!
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