その昔、「遙かなる時空の中で」というコーエーの恋愛シュミレーションゲームに没頭していた。1~4まで同じキャスト(声優)だったから、石田さんといえばキャラの顔のひとりふたり浮かぶかもしれない。最初の遙かでは、石田さんは陰陽師・安倍泰明を演じていた。
泰明が連理の榊(れんりのさかき)という名前がついた樹木に手を当てているシーン。
泰明「ふむ、ふむ。わかった。(あかねと永泉にむかって)ここに気を発する札のようなものは無いそうだ」
あかね「えっ」
永泉「えっ」
あかね「泰明さん、樹とお話できるんですか?」
泰明「おまえはできないのか?」
できるかッ!とプレイヤーが突っ込むところである。いや、あかね(主人公の女の子)も突っ込んでいたような。
このときはできなかった。だから突っ込んだ。今は中途半端にできる。ような気がする。
よく樹木や花や石に話しかけるのだけど、実際声に出すと変質者として通報されそうなので、心の中で囁くことにしている。内容は綺麗だねとか姿を見せてくれてありがとうとかの称賛もしくは暑いね寒いねとかの挨拶である。
最もよく話すのは樹木で、2年ほど前から話す機会が増えた。言葉で話しかけ、返答があるみたいなのだけど樹木はnon-verbalなコミュニケーションをするので、何を言っているのかさっぱりわからない。
樹木にてのひらをあてたとき、まず暖かいとか冷たいとかの温度が誰でもわかるだろう。外の暑さ寒さと必ずしも一致しないのがかれらが生きている証である。そしてひと呼吸遅れて、レスポンスが返ってくる。てのひらの真ん中になんとなくほわんと感じる感触。あくまで薄く淡い感覚である。単にてのひらのくぼみにあった空気が樹皮との間で暖まっただけなのかもしれない。
気功教室に通うようになって、若干の変化があった。
教室で1時間ほど練功(気功の練習)をした帰り、湯島聖堂の樹に近寄ると、樹が何か言いたいのだなとわかった。耳で聞こえたわけでも頭の中に何か映像が見えたわけでもない。なんとなく、わかった。気のせいかもしれない。頭がおかしいのかもしれない。そう思いたいだけかもしれない。が、その樹はとにかく誰かと話したくてたまらないようだ。
しかし自分はまだ樹のnon-verbalコミュニケーションを解釈できない。詳細な会話はもちろん、一体何を聞いてほしいのかという核心の部分もさっぱりだ。とりあえず葉っぱが一部枯れていたこともあり、気功教室で習った気を入れる方法をやってあげたかったのだけど、何しろまだ通い始めてひと月で、気がわかるわけでもないのでフリだけである。
後日、やはり練功した帰りに新宿の神社で御神木に手を当てると、てのひらだけでなく足先までじわ~んとしたのだ。しかし対話はできなかった。こちらから一方的に御神木と神社への好意を言葉で伝えた。
小石川植物園に行ったとき事件は起こった。気功教室が無い日で、かえで並木が続く道を歩いているときふと一本のかえでに触った。暑い季節に涼しげな緑色の葉が屋根のようになっていて、枝ぶりもなかなかで、いつものように称賛を伝えるためである。
しかし、その樹からはなんとも悲しい、胸がきゅっとなるような哀しさが伝わってきた。樹木は動けないから寂しいというような感情が。
小石川植物園の入場は有料である。駅からちょっと離れている。広大な敷地を歩いて見て回る。平日でしかも暑い日だったせいか、入場者の殆どは椅子が置いてある所でグデーッとしたり、さっさと歩いてひととおり見て帰るパターン。研究施設も兼ねているから職員はいるしカエルが鳴いていたりするのだけれど、寂しい場所ではある。
並木だから隣にお仲間はいる。それでも寂しいというのは何が足りないのか、入場者なのか馴染みの職員さんなのか、具体的な寂しさの原因はわからなかった。
気功教室に通ってふた月が経過していたが、気の感覚はまだなく、気を入れるフリがせめてもの慰めになったのならよいのだけれど。
気功の先生に話したら、樹を植えかえると枯れちゃうよ?って言えばどうかと言われた。普通の人に比べたら変人だけど気功を極めた人から見れば凡人な自分には、だから何?な回答だったw
半年通っても気感は無いし気を入れることもできないのでめんどくさくなってきた頃、樹に呼ばれた。呼ばれるというのは正確な言い方ではない、なんとなく行かなければならない気持ちになったのである。しかし呼ばれたのは、スーパーで買い物して重い袋を抱えていたときだ。スーパーから遠回りして帰る途中にハクモクレンの樹と古い桜の樹がある。気功を習う少し前に何度か見に行って一歩的に話しかけた樹である。
買い物袋が重いときに遠回りなんていう人間の都合など知ったことではないのだ。しかし人間だって、樹木や花や石の都合なんか気にしない。
花の季節だけじゃなくても来い、と言われたような気がした。この「花の季節だけじゃなくても来い」というのは、この言葉のとおりに頭の中に言葉が浮かんだわけではない。なんとなく行かなきゃという気持ちになり、おそらくそう言ってるんだろうなと解釈してブログで伝えるために日本語に翻訳したものだ。いきなり意訳しなければならない。直訳できない、それがnon-verbal翻訳である。
そんなことを考えながらヨロヨロと辿りつくと。ああ、なんてことだ。今まで御無沙汰で悪かった。花の季節でなくても美しい!お見事!綺麗だよ!
この桜の古木は小さな会社の構内にあり、まわりをコンクリで固められて、すぐ隣はブロック塀で、おそらくこの会社のビルを建てるときに切ろうという案が出たのだろう。しかしなんとか生き残り、春にはそれはそれは綺麗な花を咲かせる。よく生き残ってくれた、今年も咲いてくれてありがとうと言うと、ザザーとおだやかな風とともに花吹雪を散らしてくれたことがある。それまで無風だったのにまるでお礼を言うかのように。
「ありがとう」なのか、「オマエもがんばれよ!」なのかはわからない。
思い込みや偶然と思うなら思えばいい。思わないところにnon-verbal翻訳の真髄がある。verbalな翻訳だって相手が何を言いたいのかに興味を持つことからはじまる。
気功を始めて8ヶ月。気感はいまだ無い。
泰明が連理の榊(れんりのさかき)という名前がついた樹木に手を当てているシーン。
泰明「ふむ、ふむ。わかった。(あかねと永泉にむかって)ここに気を発する札のようなものは無いそうだ」
あかね「えっ」
永泉「えっ」
あかね「泰明さん、樹とお話できるんですか?」
泰明「おまえはできないのか?」
できるかッ!とプレイヤーが突っ込むところである。いや、あかね(主人公の女の子)も突っ込んでいたような。
このときはできなかった。だから突っ込んだ。今は中途半端にできる。ような気がする。
よく樹木や花や石に話しかけるのだけど、実際声に出すと変質者として通報されそうなので、心の中で囁くことにしている。内容は綺麗だねとか姿を見せてくれてありがとうとかの称賛もしくは暑いね寒いねとかの挨拶である。
最もよく話すのは樹木で、2年ほど前から話す機会が増えた。言葉で話しかけ、返答があるみたいなのだけど樹木はnon-verbalなコミュニケーションをするので、何を言っているのかさっぱりわからない。
樹木にてのひらをあてたとき、まず暖かいとか冷たいとかの温度が誰でもわかるだろう。外の暑さ寒さと必ずしも一致しないのがかれらが生きている証である。そしてひと呼吸遅れて、レスポンスが返ってくる。てのひらの真ん中になんとなくほわんと感じる感触。あくまで薄く淡い感覚である。単にてのひらのくぼみにあった空気が樹皮との間で暖まっただけなのかもしれない。
気功教室に通うようになって、若干の変化があった。
教室で1時間ほど練功(気功の練習)をした帰り、湯島聖堂の樹に近寄ると、樹が何か言いたいのだなとわかった。耳で聞こえたわけでも頭の中に何か映像が見えたわけでもない。なんとなく、わかった。気のせいかもしれない。頭がおかしいのかもしれない。そう思いたいだけかもしれない。が、その樹はとにかく誰かと話したくてたまらないようだ。
しかし自分はまだ樹のnon-verbalコミュニケーションを解釈できない。詳細な会話はもちろん、一体何を聞いてほしいのかという核心の部分もさっぱりだ。とりあえず葉っぱが一部枯れていたこともあり、気功教室で習った気を入れる方法をやってあげたかったのだけど、何しろまだ通い始めてひと月で、気がわかるわけでもないのでフリだけである。
後日、やはり練功した帰りに新宿の神社で御神木に手を当てると、てのひらだけでなく足先までじわ~んとしたのだ。しかし対話はできなかった。こちらから一方的に御神木と神社への好意を言葉で伝えた。
小石川植物園に行ったとき事件は起こった。気功教室が無い日で、かえで並木が続く道を歩いているときふと一本のかえでに触った。暑い季節に涼しげな緑色の葉が屋根のようになっていて、枝ぶりもなかなかで、いつものように称賛を伝えるためである。
しかし、その樹からはなんとも悲しい、胸がきゅっとなるような哀しさが伝わってきた。樹木は動けないから寂しいというような感情が。
小石川植物園の入場は有料である。駅からちょっと離れている。広大な敷地を歩いて見て回る。平日でしかも暑い日だったせいか、入場者の殆どは椅子が置いてある所でグデーッとしたり、さっさと歩いてひととおり見て帰るパターン。研究施設も兼ねているから職員はいるしカエルが鳴いていたりするのだけれど、寂しい場所ではある。
並木だから隣にお仲間はいる。それでも寂しいというのは何が足りないのか、入場者なのか馴染みの職員さんなのか、具体的な寂しさの原因はわからなかった。
気功教室に通ってふた月が経過していたが、気の感覚はまだなく、気を入れるフリがせめてもの慰めになったのならよいのだけれど。
気功の先生に話したら、樹を植えかえると枯れちゃうよ?って言えばどうかと言われた。普通の人に比べたら変人だけど気功を極めた人から見れば凡人な自分には、だから何?な回答だったw
半年通っても気感は無いし気を入れることもできないのでめんどくさくなってきた頃、樹に呼ばれた。呼ばれるというのは正確な言い方ではない、なんとなく行かなければならない気持ちになったのである。しかし呼ばれたのは、スーパーで買い物して重い袋を抱えていたときだ。スーパーから遠回りして帰る途中にハクモクレンの樹と古い桜の樹がある。気功を習う少し前に何度か見に行って一歩的に話しかけた樹である。
買い物袋が重いときに遠回りなんていう人間の都合など知ったことではないのだ。しかし人間だって、樹木や花や石の都合なんか気にしない。
花の季節だけじゃなくても来い、と言われたような気がした。この「花の季節だけじゃなくても来い」というのは、この言葉のとおりに頭の中に言葉が浮かんだわけではない。なんとなく行かなきゃという気持ちになり、おそらくそう言ってるんだろうなと解釈してブログで伝えるために日本語に翻訳したものだ。いきなり意訳しなければならない。直訳できない、それがnon-verbal翻訳である。
そんなことを考えながらヨロヨロと辿りつくと。ああ、なんてことだ。今まで御無沙汰で悪かった。花の季節でなくても美しい!お見事!綺麗だよ!
この桜の古木は小さな会社の構内にあり、まわりをコンクリで固められて、すぐ隣はブロック塀で、おそらくこの会社のビルを建てるときに切ろうという案が出たのだろう。しかしなんとか生き残り、春にはそれはそれは綺麗な花を咲かせる。よく生き残ってくれた、今年も咲いてくれてありがとうと言うと、ザザーとおだやかな風とともに花吹雪を散らしてくれたことがある。それまで無風だったのにまるでお礼を言うかのように。
「ありがとう」なのか、「オマエもがんばれよ!」なのかはわからない。
思い込みや偶然と思うなら思えばいい。思わないところにnon-verbal翻訳の真髄がある。verbalな翻訳だって相手が何を言いたいのかに興味を持つことからはじまる。
気功を始めて8ヶ月。気感はいまだ無い。