2014年12月7日日曜日

樹木と話す(その2)

神社や公園によく行くのは、古木目当てである。

神社に願かけしてもちっとも叶わないし、願かけしないで感謝だけするのもやってみたが、何がどうなるわけでもない。だから古木目当てになった。神社は清浄を旨としているので綺麗に手入れされていているし、初詣の時期以外は空いている。入場料いらないし。

土地の割に人口が多い東京では広大な公園はおそらくその上にビルを建てられないようなヤバいものが埋まっているだろうなとは思うけど、霊感も無いし、例の蚊の騒ぎのとき以外は気軽に行っている。ただ神社よりは人が多いので神社に行くついでぐらいのポジションにしている。

人が少ない方が良くて、樹が好きなら田舎に行けと言われそうだが、手つかずの自然は恐怖でしかない。畏敬の念をいだかせる何かがある。手入れされた自然が好きなのだ。それに公共交通機関が便利でないと、体力の少ない自分には不安だ。これでも2年ほど前にパワースポットによく行くようになった頃に比べたら随分歩く距離も増えたけれど。

樹への挨拶は、ポンと触ったり、手を当ててしばらくじっとしたり、触れない場所にあれば気を樹の下から上に回して自分の上から下に回して巡らせてみたり、ただし気感は薄いのでできているかどうかは不明だ。神社や公園の敷地内にある太い樹に対して挨拶したり話しかけたりしていた。

しかし樹は他にもある。街路樹である。神社や公園にあるのよりは細いが、車道の脇で車の騒音や排気ガスを浴びながら、ゴミ置き場にされたり看板をくくりつけられたり電飾をぶらさげられたりしながらも健気に生きている。

街路樹の存在がクローズアップされたのだ。それまであまり意識していなかった。人間の目は視覚情報を受信するが脳で情報の取捨選択が実行される。花が咲くなど大きな変化が無いと見ようとしない。それが、たいした変化もない季節に街路樹がある、ここにある、あそこにもある、ずっとおなじ種類の樹が並んでいる、とはっきり意識したのだ。

赤坂の方道6車線ある広い道路脇の街路樹が、大きな存在感を持って一本一本がまさに樹立していた。だからポン、ポンと一本ずつ触って、ときおり話しかけてゆっくり歩いた。ハタから見れば樹につかまらないと歩けないお年寄り状態である。樹は何か訴えているようにも見えるし、単に「見て!」と言っているようにも感じた。non-verbalなコミュニケーションを樹が投げかけてくれているのである。

しかし、何を言いたいのかわからない。

せめて触って、綺麗だね、今日は寒いね、車道脇って大変だねと話しかけるのが精いっぱい。

気功の練習もサボりがちで、気功教室に行くより神社に行くほうが魅力的に思えて新宿の諏訪神社に行ったのである。神社に到着するまでの道に街路樹があった。街路樹が物言いたげなのだが、相変わらずわからないのでポンポンと挨拶をして、神社に到着した。

ああ、なんということだ。拝殿の右手が広めの空間で、そこに古木がたくさん。立派な樹木が芸術的な群像のようだ。

街路樹は神社の古木よりはだいぶ若い。長い年月を神社という神域で生き続けた樹の先輩に、敬意を持っているのではないだろうか。そして、多少なりとも樹の訴えがわかる自分に対し「いらっしゃい!すごい先輩いますよ!こっちこっち!」と呼びこんでいたのではないか。ご都合主義な解釈だけれど。

このnon-verbal翻訳が正しいのではと考えたのは、別の場所で同じことがあったからである。

九段下に向かって歩いていたところ、やけに街路樹が物言いたげだった。ポンポンと触ったり、ときには立ち止まって触りがてら挨拶したり。このとき、人間と樹が存在していた。人間の目は見えるものを背景と動体に分けて、背景はいつも同じな道路や建物、動体は人間など動くものだ。車も動体なのだが車道を渡るとき以外はあまり意識せず、歩道で何かいる、と認識するのは人間や散歩中の犬などの生き物である。しかし、そのときは人間と樹がいる、という感覚だった。頭がおかしいのかもしれない。でも口に出さなければバレない。多分。

そして、見つけたのだ。お掘りの縁に太い幹を持つ、相当樹齢の高いであろう親分みたいな樹を。こんなところにこんなに大きな樹があるのに気づいていなかった。いつも違う道を使っていたせいでもあるのだが、この日は街路樹に導かれるように歩いているうち、親分に引き合わされた。「やっとこの道を通ったね!すごい先輩いますよ!こっちこっち!」

そうすると、問題は赤坂である。

近くに古木は、覚えている限り無いのである。豊川稲荷には樹木があったはずだけど、例の街路樹とは少し離れている。覚えていないだけで実は存在していたというのはよくあることなので、きっと何かあるのだろうが、わからずに時は過ぎた。

銀杏の季節。出かけるのに経路が2種類あったのだが、出がけになぜか急に赤坂側から行こうという気になった。そこで見たのだ、赤坂の街路樹は見事に黄色くなっていた。銀杏の樹だったのだ。今まで銀杏だと気づいていなかった、葉っぱの形が明らかに銀杏だったのに。綺麗だよ、秋だねと話しかけながら歩き、一旦街路樹は途絶える。しかし豊川稲荷まで行くと、背の高い大木が、やはり銀杏だったのだ。

「見て!」で正解だったのだろう。自分たちの葉が黄色くなる見ごろを見てほしかったし、少し離れているけれど親分のことも知らせたかったのだろう。

すっかりやり遂げた気分なので古木趣味はやめるかも。